白熊日記

7歳と5歳を育てる母親が、日々考えたことを書いています。

育児と効率

子どもを産んでから7年間、ずっと育児と効率について考えている。

子どもを産むまでは、まさに分娩の時ですら、効率がいいことがよしとされていた。破水から始まって最終的に1日半ほどかかった長男の出産時と、生まれる10分前まで自宅で陣痛をやり過ごした次男の出産時の話をすると、後者を「要領のいいお産」だと褒めるような口調で言う人が多かった。

でもその価値観は、出産直後に急転直下、まったくよくないものとされるようになった。授乳しながらテレビやスマホを見てはいけません。同時に2つ以上のことをこなす、それってつい先日まで、特に職場では、マルチタスクという言葉で称えられていませんでしたっけ?という場面が急激に増えた。

 

でも実際のところ、育児はそもそもが中断と横やりでできている。予定を組んで要領よく効率よくこなせる日なんてないに等しい。

子どもがある程度大きくなっても、例えば我が家であれば7歳と5歳になった今でも、朝、寝ている間に家事をしようと思っても、寝ぼけた子どもたちに抱っこをせがまれたり、機嫌よくテレビを観ている間に仕事をしようと思っても、隣に来て一緒に観ろと言われたり、そんなことは日常茶飯事だ。

お母さんは忙しいから今は無理。

その一言が言えれば、そしてそれがすんなり通ればどんなに楽か。4歳と2歳とか、5歳と3歳とか、子どもたちが言葉を理解できるようになった頃、よくそう思っていた。

でも、そうやって子どもたちの気持ちを置きざりにして他のタスクを優先しても結局、寂しさをこじらせた彼らにその後どっぷり時間を使うはめになる。世の中には聞き分けのいい子もいて、効率よく育児ができる親もいるのかもしれない。子育てをしながら資格を取ったり大学に通ったりできるケースもあるくらいだから、それは本当にそうなのだろう。

でも少なくともうちの子どもたちはそういうタイプではない。「後でね」「ちょっと待ってね」と言って子どもたちより他のことを優先すると、いつも後になって駄々をこね、時間も余計にかかるのだ。

そんな数年間を経て、今はもう、時間を効率的に使おうと思うこと自体をやめている。ソファで子どもを両脇に抱っこしながら観たいわけではないテレビやDVDを観たり、やりたいわけではないオセロやすごろくをしている時間が日常にたくさんある。子どもたちと一緒にいる時に片手間にネットを見たりしないよう、スマホにはスクリーンタイムを設定している(私は意志が弱いのだ)。幼児番組やオセロやすごろくそのものは特に楽しくはないが、子どもの時間を大事にしていると感じられると、自分のことも肯定できるような気がしてくる。

もう7歳と5歳なのに、そんなに抱っこをせがまれるものか?と思われるかもしれない。でも現実はそうなのだ。7歳だろうが5歳だろうが我が家の子どもたちは抱っこを求めるのだ。

 

自分のことだけを考えれば、他にもやりたいことはいくらでもある。生まれた時から実家が商売をしていて常にお金の不安があったので、自分は仮に結婚しても自力で食えるようになりたいと中学の頃から思っていた。でもいろんなことがあり、今は自分で稼げていないので、子育ての合間を縫って仕事を再開すべくずっとがんばってきた。今も細々とはがんばっている。

ただ、「昔のトラウマを克服したい」「目標を遂げたい」という自己満足のために時間を確保することに躍起になるのは、今はやめている。産後7年経って、ようやく無理せずその気持ちをあきらめられるようになった。

今となっては、もっと早くそう思えていれば自分も楽だし子どもにもよかったのにとも思うが、子どものいなかった人生と子どものいる人生が、私という人間の中ではようやく最近、折り合いをつけたのだと思う。

 

私が幼かった頃、母はいつも忙しそうで、乳児でもない子どもを抱っこしてのんびりしていた姿など記憶にないし、なんなら椅子に座っていたのも食事の時ぐらいだったような気がする。食洗機も乾燥機もない暮らしで子どもは3人いたし、母に悪気はまったくなかったと思う。だが、常に走り回っている母を見るにつけ、そして常にお金のない家の状況を察するにつけ、私はなるべく親に負担をかけたくないと考えるようになり、少なくとも自分に関することについては親に迷惑をかけないように、いつも気を張って気を遣って生活するようになった。

だから大学に合格して一人暮らしを始めた時の解放感は大きかったし、その気持ちは今でも続いていて、ドラマや小説で時々目にする「実家に帰るとホッとする」「母親の前では本音が出せる」という描写も頭ではわかるが心から理解はできないし、実家に帰るのはまだ少し気が重い。

 

甘えたい気持ちやスキンシップしたい気持ちを子どもの頃にしっかり満たされたらどういう人に育つのか、私は自分の子どもたちのこれからを楽しみにしている。若い頃の私のように、息切れするほどがんばることはできなくてもいい。暮らしの中にほっとする時間を当たり前に持てるような、そんな人になってくれたらとてもうれしい。