白熊日記

7歳と5歳を育てる母親が、日々考えたことを書いています。

自分の部屋がほしい

生まれ育った家は中古で小さくて、4畳半の子ども部屋には二段ベッドやピアノがぎゅうぎゅうに押し込まれていた。今思うとどうやって収まっていたのか不思議だが、そんな二段ベッドの下の段でりぼんやジャンプを読みながら、私は自分だけの部屋を持つことにたいそう憧れていた。

小学6年生の頃、両親は家を建て替えた。私は個室をもらえたが、引き戸の和室だった。今度はいわゆるドアノブのついた扉があるフローリングの洋室に憧れた。

高校生になると、唯一のフローリングの子ども部屋を使っていた兄が上京し、ついに私に洋室が巡ってきた。机にベッドに大きな窓もある、地方の高校生にはじゅうぶん贅沢なその部屋で、夜な夜なラジオを聴きながら勉強した。次は自分ひとりだけの家でひとり暮らしをするのだ、そのために、絶対に上京するのだ。九州の端っこのお金のない自営業者の娘だった私には、親の負担を最小限にしながら、かつ親が誇りに思えるような進路、つまり東京の名の知れた国立大学に合格することだけが、その夢を叶えるためのただひとつの道だった。今振り返ってもあの時ほど勉強したことはない。そうやって私は、自由を手に入れた。

そんな経緯があるので、結婚して家を買った今でも、自分の部屋がないと悲しくなってしまう。自分だけの机と本棚がある部屋は、私にとっては人生をかけて手に入れた自由の象徴なのだ。家があるだけで幸せではないか、と怒られるかもしれない。その通りだとも思う。それでも、心の奥底では自分の部屋を欲してしまうのだ。

次男が幼稚園に入って時間に余裕ができた頃、私がまっさきにしたのは家の一室を自分の部屋にすることだった。安い机と椅子を買い、将来の子ども部屋として空けていた部屋に設置した。子どもが幼稚園に行っている間とか、寝ている間とか、少しでいいからここで自分ひとりだけの時間をすごしたい。そう切実に思っての行動だった。

でも現実は甘くなかった。幼稚園はコロナで度々休園になったし、夜は夜で子どもたちは眠っているように見えても私が隣に寝ていないのを敏感に察知して泣き、部屋にこもれるような時間はほとんどなかった。もともと子どもたちが家にいる間の仕事はダイニングテーブルでやっていたので、子どもたちの不在時だけ自室に移動するというのも面倒になり、結局その部屋は使わなくなった。そのまま今に至り、あの時に買った安い机と椅子は物置と化して埃をかぶっている。

そんなこんなを経てもまだ私は、自分の部屋をあきらめていない。子どもたちが高校生ぐらいになり、私がそばにいることを必要としなくなったら、その時こそまたあの自由を取り戻すのだ、と密かに思っている。そして取り戻した暁には、その自由をできるだけ長く謳歌したい。そのためにも、いつまでも健康で自立した生活をしなければと思っている。私にとって、自分の部屋がほしいという願望は、幼い頃から今でもずっと、自分を律してがんばるためのエネルギーになっているのだ。