白熊日記

7歳と5歳を育てる母親が、日々考えたことを書いています。

年老いた日の私に向けて

先日ツイッターで、子連れ狐さんという人の育児漫画を読んだ。

 

シングルファーザーだという彼は、育児漫画を描く理由について

「子どもたちの可愛かった記憶を語り合える相手(配偶者)がいないから」と書いていた。

いつか子どもたちが巣立った後、昔を思い出して懐かしむ時の相棒として

育児漫画を描いているそうだ。

 

私も子どもが生まれるまで、夫との日々を毎日ではないものの日記に記していた。

子どもが生まれてからも書き続けるつもりだったが、

実際に産んでみたらいっぱいいっぱいで、

時間的にも精神的にも日記を書く余裕なんかなく、結局そのまま7年も経ってしまった。

 

でも、子連れ狐さんの言う通りだ。

私には夫はいるけれど、育児に関してはワンオペの時間が長い。

自分ひとりでがんばった子どもたちとの尊い時間を残しておいて、

いつか年を取って暇になったら何度でも読み返したい。

 

そう思い、これからはできる限り、

ここに子どもたちとの日々を残しておきたいと思う。

 

 

盛り上げ上手になりたい

パーティーのスキルが皆無だ。

クリスマスを盛り上げられたためしがない。

 

数年前まではそれでもよかった。

クリスマスにおしゃれをして出かける相手もいなかったし、

クリスマスにおしゃれをして出かけるタイプではない人と結婚したし、何も問題なかった。

 

でも、子どもが生まれ、その子らに物心がついた今、

イベントを適切に演出する能力の低さは私の心に致命傷を与えている。

 

プレゼントの用意。これは金を出しさえすれば店がやってくれるので大丈夫。

ツリーの飾りつけ。これも子どもたち自身が楽しんでやってくれるので大丈夫。

問題はその日までの雰囲気作り、及び当日の晩ご飯の組み立てである。

 

まず雰囲気作り。

できればクリスマス1週間前あたりからは叱らずに楽しい日々を送らせてやりたい。

でもできない。今年もおととい、返事をしない子どもたちを叱ってしまった。

 

次に当日の晩ご飯。これが一番の難関だ。

もちろん努力はしている。

毎年12月に入ったあたりからメニューを考え、

雑誌やスマホで参考になりそうなレシピをチェックし、

日が近くなれば買い物に行き、当日は極力がんばって調理する。

 

でも、できあがったテーブルはなんかダサい。スカスカしている。

やり慣れない人ががんばった感が満載で、

インスタで見たどこかの誰かのディナーとは雲泥の差だ。

 

今日も絶対にそうなる自信がある。

 

メニューは以下の通り。

 

・モスチキン

・パスタ

・ピザ

・ポテト

・サラダ

カルパッチョ

・シャインマスカット

 

がんばっている。私はがんばっている。ただスキルがないだけだ。

 

そうこうしている間に、メインであるモスチキンが昼ご飯として消費されてしまった。

もうだめだ。

 

今年もまたスカスカのクリスマスがやってくる。

セロトニンが見当たらない

理由もないのに涙が出る。つまりセロトニンが不足している。

 

大学時代の後半くらいから、特に冬になると気分が落ち込むようになった。

1回目は就職活動の冬。全然内定がもらえなくて摂食障害になった。

2回目は社会人3年目の冬。激務すぎて休職し、心療内科に通った。

3回目は社会人7年目の冬。炎上プロジェクトに放り込まれて会社を辞めた。

4回目は2度目の産後の冬。2歳0歳のワンオペ育児に仕事が重なり坂口恭平さんに電話した。

5回目が今回。

 

今は渦中なので明確な理由がわからないのだが、わからないなりに考えるに、

 

・結果の出ないワンオペ子育て6年目(同じこと100万回説明しても伝わらない)

・北海道の寒さ(寒いの嫌い)

・寒いの嫌いなのに良い母ぶって無理して雪遊びに付き合ったことによるストレス

・繰り返される子どもからの食事への文句

・ちょっと叱ったら即泣く子どもへの困惑

・叱らず諭すを目標にしているのにたまに叱ってしまう自分への嫌悪

 

の積み増しによるもののような気がしている。

 

不思議なのは、こんなことには既に何年も悩んできているし、悩むたびになんとかやり過ごしてきたのに、なぜ今回だけ涙が出るほどつらいのかということだ。閾値を超えたのか?

 

しかも、そもそもこんな悩み解決するわけはなく(子どもとはいえ自分とは別の人間なので、基本的に何をしたって変えられないから)、解決しようと思ったら

 

・気にしない(認知を変える)

・誰かに愚痴を聞いてもらう

 

くらいしか方法はない。

 

そう!!

それくらいしか方法はないのに、私には愚痴を聞いてもらえる相手がいないのだ。

涙まで出てくる原因はそれかもしれない。

 

本心を話せる友達はいる。多くはないが、何人かいる。

でも、みんな忙しいのだ。子どももいない。

金を稼ぐ必要もなく専業主婦として子育てをしているだけの私の悩みなんて、彼女たちには話せない。彼女たちに嫌われたら本当に私個人は世の中から消えてしまって、妻として、あるいは母親としての私しか残らない気がして怖くて話せない。

 

夫に話せばいいのかもしれない。

でも、一人目の産後に愚痴のようなことを言った時、「俺ぐらい稼げるなら子育てと代わってやるよ」的なことを言われたのが忘れられない。その時は売り言葉に買い言葉だったのかもしれないなと今は思う。許していないというわけではない。私も似たような、自分では気づいていないけど相手にとっては傷つく言葉を言ったかもしれないし、そんなのは長く一緒に暮らせばお互い様だという気持ちもある。でも、だから忘れて弱みを見せられるかというと、話は別だ。もしまた論破されたり馬鹿にされたり指図されたりしたらと思うと、何も言わない方がましだと思ってしまう。

 

はあ。

セロトニンってどうしたら戻ってくるんだろう。

春まで戻ってこないのかい。

 

戻っておいでよ。

読書記録/『佐野洋子対談集 人生のきほん』佐野洋子、西原理恵子、リリー・フランキー(講談社)

相変わらずやる気がない。

 

やる気がなくても食うに困らないなんて幸せ者だよ、贅沢だな、というツッコミが脳から絶えず入るので、誰にも相談できない。

 

産後、小説が読めなくなった。たまにハマって一気に読み通すこともあるが、そういう小説にはめったに出会えなくなった。

 

子供の頃、小説を読んでいると母が決まって「私はどうしても小説は読めない」、「全然面白いと思えない」、「現実が大変すぎて作り物を読む気になれない」というようなことを言い出して、そのたび私は「なんで子どもが楽しんでるものにそんなネガティブな言葉をかけるんだよ…」と心をくじかれていたが、今ならあの頃の母の気持ちがわかる。本当に、まったく面白いと思えないのだ。他にやることがなくても、忙しくなくても、読んでいる時間がもったいないような気がしてくる。金銭的に困っていない今の私ですらそうなのだから、バブル崩壊直前に家を建て、さらには家業も傾いて、毎月のように借金が増えていく家庭を必死で回していた母に、フィクションを楽しむ余裕があったはずがない。

 

そんなこともあり、最近はエッセイや対談集が好きだ。

自分のことを語る時、そこはかとない自慢が漂うのは万人に共通のしかたのないことだと思うので、その自慢が自分の感覚にフィットするというか、許容範囲に含まれる人のエッセイや対談は楽しく読める。

 

この対談集の中で佐野さんが何度か言っていた、「仕事は食うためのもの、育児の方が自分にとっては大仕事でありかけがえのない体験だった」という言葉が印象に残った。彼女にとってはそうなのかもしれないが、私から見たら、それは絵本作家として唯一無二の存在になった後だからこそ、持てる者の余裕があるからこそ出る言葉なのではないかと感じた。

 

浅ましいと思いつつ、私はまだ、何か自分で食えるような仕事を手に入れたいと思っている。育児は確かに大仕事だが、それだけでは落ち着かない。あと10年もすれば飯炊きと洗濯くらいしか子供にしてやることは残っていない。その時、私は53歳。私には、存在意義を何も持たない53歳を耐えられる自信がない。強欲なのかもしれないが、私は仕事がほしい。

 

そんなことを考えながら読んだ。

オーディブル始めました

連休が明けてからというもの、やる気がまったく出ない。まるで五月病だ。

 

4月に上の子が小学校に入って以降、ガラリと変わった毎日のスケジュールに適応したり、連休に予定していた家族旅行の準備をしたり、隙間時間で本を読んだりエルサスピークで遊んだりなどバタバタしていたら、3月から出ていた蕁麻疹が悪化。慢性蕁麻疹との診断を受ける。続けて親知らずのあたりがハチャメチャに腫れ、口が開かなくなった。

 

という経緯で飲み始めた蕁麻疹の薬や抗生物質や鎮静剤の影響もあり、連休が明けて暇になったらずーんと気分が落ち込むようになってしまった。

 

時間はあるのに何もしない毎日。

何もしない、と言っても子どもの世話や家事はやっているので、本当に何もしていない時間は実質2時間/日くらいなんだけど、明るいうちから2時間もぼーっとしていると、自由な時が一切なかった数年前の自分が怒り出すのかなんだかわからないけどとにかく心がものすごく苦しくなってしまう。私はこのまま、やりたいことも何もない人生をあと何十年も生きるのか?みたいな気分になってしまうのだ。

 

たった1週間やる気が出ないぐらいでずいぶん大げさである。

贅沢な悩みだなほんとに。

 

とまあそんなこんなで暇を持て余し、このたび遅ればせながらオーディブルを始めました。本を朗読(音声)で聴けるというこのサービス、前々から試してみようとは思っていましたが、実際にやってみるとやはり、小さな子どもの世話係にはぴったりの画期的な代物である。子どもとの暮らしに無限に存在する「ただ待つだけの時間」がささやかに彩られるのだ。

 

ご飯ができたと呼んでからテーブルにつくまでの時間、ご飯を食べ終わるまでの時間、お風呂に入ろうと声をかけてから実際に入るまでの時間、うんこが出るのを待つ時間、服を着るのを待つ時間、靴を履くのを待つ時間、布団に入ってから眠るまでを待つ時間・・・

 

全部足したら何時間になんの?!?!

と発狂しそうになったことも一度や二度ではないが、あれやこれやの待ち時間がすべて、オーディブルさえあれば、好きな本を読んでもらえる時間だと思えば、我慢できるではないか。

 

まさに革命である。Amazon様。

 

これからは、ぼーっとしている時間にもオーディブル様に本を読んでもらって、自分のダメ人間感をごまかしていこうと思っている。

読書記録/『暇と退屈の倫理学 増補新版』國分功一郎(太田出版)

何年も前からずっと読みたいと思っていた。でも、育児の合間の時間をつなげて読む私のスタイルでは何年かかっても読み終えられない気がして買えなかった。そうこうしているうちに、この増補新版が出た。とりあえず買うだけ買っておこう、積読万歳!と文字通り積み上げていたら、今度は文庫版が出た。それでようやく、新年度になり子どもたちが学校や幼稚園に行き始めたこの4月から読み出した。

 

独身の頃だったら土日や連休を使って一気読みしただろうなと思う。それくらい面白かった。残念ながら今の私には一気読みはできないが、細切れの時間をつなげて読んでもすごく面白かった。

 

なぜ人は退屈するのか?

何をしてもいいのに、何もすることがないような気がするのはなぜなのか?

 

これは家事と育児を担当する生活をするようになって以降、私も数えきれないほど抱いてきた感覚だ。本書によれば、退屈は定住化によって発生したと考えられる。かつては移動しながらの狩猟生活をしていた人間が、気候変動等の影響により、決まった土地に定住するようになった。生活拠点を移すたびに環境に適応する必要があったそれまでの暮らしに比べると、定住後の生活は刺激が少ない。つまり、脳への負荷も低くなる。そのことが、人間の持つ潜在能力に余剰を生んでしまった。それにより、人は退屈を感じるようになったというのだ。

 

これには納得だった。育児もまったく同じだと感じた。一人目の出産後は、何もかもが初めてで、自分の一挙手一投足が子どもの生死を左右しているようで、まったく気が休まらなかった。退屈する暇どころか寝る暇すらなかった。

 

ところが、二か月、三か月と経つうちに、慣れる。ちゃんと生きているか不安、という気持ちはなかなかゼロにはならなかったが、そんなに怖がらなくても大丈夫だという安心感は日に日に増していった。

 

一人目でこうなのだから、二人目の産後はなおさらだ。私の場合、作業が二人分になる大変さはあったが、不安は各段に減った。そしてある日、思った。下の子に授乳しながら上の子とままごとをしている時、下の子を抱っこで寝かしつけながら上の子と幼児番組を観ている時、「ああ、暇だ」と。

 

本書のメインとなる上記の問題はもちろんのこと、それ以上に私がなるほどなと思ったのは、退屈と気晴らしが絡み合った安定した生を生きる人間が、突如何らかの決断をし、その決断の奴隷となるという現象についての考察だった。人が嬉々として残業したり、いきなり資格を取ろうとしたりするのはなぜなのか?

 

これも私にとっては非常に身に覚えのある現象だ。まさに本書で事例として挙げられていたが、就職活動中に資格取得の勉強を始めてしまう問題。私の場合はそれにとどまらず、新卒で入った会社に勤めている時は翻訳学校や英会話学校に通ったし、二社目の時は税理士試験に挑戦したし、つい最近、下の子が幼稚園に入った年にも何か手に職を付けた方がいいのではという強迫観念に苛まれた。ずっとやっている。書いておいてなんだが、改めて列挙すると本当に愕然とする。私、ずっと同じことやってんじゃん!!

 

本書でのこの問題への答えは、「不安だから」そして「人間らしい暮らしを楽しむスキルがないから」である。返す言葉もありません。

 

私に必要なのは、資格や手に職ではないのだ。不安をこじらせず、余裕を楽しんで暮らしていくことなのだ。

 

とはいえ、これからも私は何度となく不安になるだろう。わかりやすい資格に飛びつこうとすることも、少なくともあと5回はありそうだ。

 

そのたびにこの本を思い出そうと思う。

読書記録/『ミシンと金魚』永井みみ(集英社)

最初に読んだのは、小説そのものではなく受賞のことばだった。

 

「ほんとうは、作家になりたかった」から始まるその文章は、とてもシンプルだ。かつ、筆者と同じように数年前まで小説を書こうとしていた私には、自分の気持ちを言い当てられたような内容で、ずしんと心に残った。

 

だから今月、子どもたちの学校や幼稚園が始まって1時間だけの自由時間が手に入った初日、急いでこの小説を買いに街の大型書店に行った。そして、細切れ時間をつなげて読むのではなく一気に最後まで読み通したかったので、数日寝かせたあと、先週の金曜日の夜にようやく読んだ。

 

人には内面がある。口数の少ない人でも、みんな何かを感じ、考えている。自分以外の人間にも感情や考えがあるというそのことを、私は本当にわかっているだろうか。たぶん、わかっていない。もちろん、理屈としては当然わかっている。でも、生きている間に自分と関わる人たちの、それぞれのその中身を細かく正しく想像することは、これから先もずっとできないだろう。そして同じく私の内面も、きっと死ぬまで誰にも想像できない。絶望というか諦めというか、そんな気持ちを抱きながら読んだ。

 

親友でも家族でも、完全にわかりあうなんて無理だ。今ではそう思うが、私も30代半ばまではわかりあえると思っていた。わかりあえていると信じて疑わなかった相手もいた。でも結局、そんなのは単なる思い込みだ。わかりあえていなかったという事実に思い至るようなできごとを避けられる余裕があるうちは、思い込める。それだけのことだ。

 

わかりあえないことは確かに悲しいが、わかりあえないと気づいた後も、関係は続く。人生も続く。自分以外の誰かのことは、自己満足を承知の上で想像するしかない。たぶんみんな、わかりあえないまま、わかろうとしたまま、そして少しずつ忘れながら死んでいくのだ。

 

そんなことを考えながら読んだ。主人公の一人称の語りが生き生きとリズムよく、気がついたら読み終えていた。ラスト、なぜか清々しいというのか「よかったねえ」みたいな気持ちになるのが不思議だった。